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創 業 者
山田大吉物語
岐阜県市橋村 明治14年(1881年)2月16日生まれる
田畑五反耕し、山林から四十貫(150kg)材木を運んで里へ降り、田畑からは米四俵(240kg)を山へ運ぶ日々を送る。
10歳の時(明治24年:1891年) 友達(西田万次郎)と2人で赤坂祭(旧中山道の57番目の宿場町として栄えた赤坂町:現在は岐阜県大垣市。)を見に行き、その足で米原まで歩き米原から汽車で大阪駅へ。
天神小橋で機械業をしていた山田清兵衛(中之島の親類)を尋ね仕事をする。
既に、三男 㐂太郎 四男 富次郎は先に奉公に出ていたので家元より早く連れ戻される。
12歳の時(明治26年:1893年)山田清兵衛に漫才を見に連れて行ってもらい、『きつねうどん』をご馳走になり、この時の嬉しさと味を生涯忘れず。
19歳(明治23年:1900年)の時、訪れた石炭山で負傷し、2・3年治療する。
21歳(明治35年:1902年)大阪の口入屋(今で言う職業の紹介、周旋業ということ)へ行き、天満橋北詰の正木ラムネを紹介してもらい奉公、月給16銭、片町から四条畷まで3ヶ月毎日ラムネを運ぶ。
後、木村屋で2ヶ月木びき(釜の火用の薪づくりと思われる)をし、再び、口入屋へ、寿司屋などを紹介していただくが、羽子板橋の甲栄堂で月給12円にて5年間勤める。
26歳(明治40年:1907年)堺市大寺の寺方のもち屋に奉公、この時大金120円貯める。
主人に見込まれても店員に金を貸してくれと云われるのが嫌で寺門の前にて無料で易者にみてもらった。独立を促され、大阪へ野田波止場の商船会社付近で家賃4円50銭でもち屋を開業する。
早朝よりもちを作り、午前中に売り切り、午後はご近所鉄工所にて昔の機械職の経験を見込まれて日給20銭でお手伝いする程の仕事好き。
翌年、27歳(明治41年:1908年)で妻よねをもらう。
もち屋の評判が良くなり、もち屋に専念するため、ご近所の鉄工所を辞め、天満東京屋で屋台車を世話してもらい、ラムネ時代の行商が役に立ち、天満~寺町~宇治川~桜宮~船場~江戸堀と売り歩き人気がありよく売れた。
30歳(明治44年:1911年)位の時に、大阪に出来てきたすぐに食べた『きつねうどん』の味が忘れられず、阿波座4丁目の医者住居跡を家賃18円で借り、もち屋から麺類製造業を始める。
大黒屋の始まり。
開業当時は、手打ちにて『うどん』を打ち、『うどん玉』をご近所相手に店売りの小売りを始め、好評で徐々に今でいうクチコミで拡がり、隣町の食堂などへの卸しを始め『うどん玉』を販売するようになり、製麺生産量が増えるにつれて、手打ちでは間に合わなくなり、10代で仕事した械業の経験ともち屋の時に働いていた鉄工所の経験をいかして、大阪では、讃岐うどんと異なり、コシに重きをおくことなく、『うどん』は、大阪の水は美味しく、その水からできた美味しい出汁と一緒に食していただいてこそ『うどん』で、そのため、『うどん玉』は出汁を吸いやすいように(出汁に添う)、しなやかで柔らかい麺が好まれ、その麺の味をそこなう事無く、製麺機械を使って製麺を始め、屋台での販売や市内以外にも大八車で各地区の販売店へ行商に行き、一日、小麦を25kg×50本位売れ好調となる。
阿波座で清・秀夫・きくゑ・きみ子・松子・杉男出生。
33歳(大正3年:1914年)妻よね死亡。のぶ子を後妻に迎え、西区京町堀4丁目24番地に日本建築3階建ての社屋兼住居に移り、引き続き麺類製造業に精を出し順調に大阪浪速のお出しに添う『おうどん』の『うどん玉』を広める。
64歳(昭和20年:1945年終戦)大阪大空襲で京町堀の社屋兼住居は全焼にあい、能勢の一の鳥居に疎開し住居移し家族で住む。
戦災で全ての家屋を焼失しましたが、唯一杉男名義の守口の借家が焼け残り、そこに大吉と杉男が来て再び製麺を始め、清とその家族も一緒に守口市文園町61番地で再び製麺類製造を始める。
翌年、昭和21年1946年、守口大黒屋の始まり、
戦後すぐは、食料不足・物資不足の中、京町堀での開業当初と同じで、手打ちでの製麺から始め、食料不足の折り、配給の小麦粉を、小麦粉の量に相当する製麺した『うどん玉』と交換、ご近所の方や業者の方々が行列ができる程忙しく、戦後の食糧難を過ごし、従来よりお取引のあったお客様などが復興に伴い商売が拡大・安定する。
大吉90歳(昭和47年:1971年)で、商人の町大阪でもち屋・製麺類製造と大阪人の食文化にささげた生涯を終えて永眠。
大吉死去後、2代目大吉の長男清が跡継ぎとなり、2代目清平成2年(1990年)死去、後、清の長男保雄が跡を継ぎ3代目となる。
現在は保雄の長男ヒロマサが平成20年(2008年)に4代目となり、大阪浪速の『おうどん』の味を今に引き継ぎ、『うどん』だけでなく『そば』『中華そば』を製麺し、いち早く美容と健康に良い『韃靼(ダッタン)そば』を始め好評となり現在に至る。
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